眼科医の癖に外科の先生を差し置いて、痔のブログを書くなんて僭越ですが、たまたま今読んでいた著名な聖書学者の神父様の本に、ご自分の痔の手術のお話を面白おかしく書かれていたので、少しご紹介します。
お食事中の方は、後からお読みください。
もっともこの文章は、1990年に書かれたものですから、今から30年以上前のものですから医学的なお話は、もう昔話ですから省略した方がいいですね。
神父様によると、痔という字の由来は、ヤマイダレに寺と書きますが、昔からお坊さんに多かったからという説もあるそうですが、主治医のお話によると死んでお寺のお墓に入るまで治らないからということだったそうです。
おしりが心臓より上にある動物は、血液が肛門周辺の静脈にたまることは無くスムーズに心臓に戻るので、痔になることは無いけれど、直立歩行するようになった人間はおしりが心臓より下位になったために、血の巡りが悪くなり、痔にかかりやすくなったそうです。
眼科医が痔の患者さんを診ることはないので、何とも言えませんが、ポリクリでお会いした患者さんはかなり辛そうでした。
神父様によると、紀元前380年ごろ既に医学の父ヒポクラテスは、治療法として、鉄製の器具を赤くなるまで焼き、痔を完全に乾くまで焼灼し、ひとつ残らず焼きつくさねばならないと述べているそうです。(学伸社エンタプライズ事業部ヒポクラテス全集第二巻153ページ以下)
また
旧約聖書のサムエル記の中にも、この腫物の病気についての記述があり、神様の契約の箱を横取りしたペリシテ人は、罰としてこの病気に軒並みかかり、町の叫び声は天にまで達したと記載があるそうです。(サムエル記上5・6以下)
そのためフランスでは、痔のことを「ペリシテ人の病気」と呼ぶそうです。
そういう意味で、歴史ある疾病なのですね。
30年前の時点でも手術は、上述のような恐ろしいことは無く、難なく快適に終わったそうですから、現在の治療はさらに簡単に、安全になっていることでしょう。
肛門という場所的に、特に女性は億劫になるかもしれませんが、進んだ医学の恩恵は、進んで受けるに如くはないと思います。
この神父様も、自分から進んで受けたのではなく、入院中の修道者の方のお見舞いに行った際に、事情を知っていたその方に説得されて診察を受け、手術を勧められ、早速受けたそうです。
やはり白内障でも、痔でもそうでしょうが、誰かにそっと後押しされないと、受ける気にはなれないものかもしれません。
この文章が、その誰かのお役に立って、つらい症状が解決することを願っています。