12世紀のフランスの修道士の聖ベルナルドは、自分の人生を水路のようにではなく、貯水池のように見なすのが賢い人と語りました。
水路は、流れ込んだ水をそのまま流しだしますが、貯水池は満タンになるまで水を貯え、容量を超えた分だけ排出するので、蓄えた分は減りません。
これは貯蓄術の話ではないので、水というのは、自分の富だけを指すのではなく、自分の才能や時間 与えることを期待されている全てのことですが、そういったものを注ぎ出す前に、完全に満たされるまで待つことも学ばなくてはならないということです。
私たちには、日々自らを注ぎだすことを期待されていることが、たくさんあります。
例えば、年老いた親の世話をすること 子供たちの世話 近所づきあい 仕事 勉強。
でも自分の時間を、水路のように全て注ぎだしていると、肉体的に疲弊し、精神は干からびてしまいます。
心配しなくても、現代において、そこまで頑張るなんてばかみたいと思う人が多いのでしょうから、12世紀の修道士の話には、得るところはないと思う方が多数と思う反面、お金の話に置き換えると、皆納得します。
でも、神様以上に、気前良くなることは期待されていないのだから、心の喜びを取り戻すため、また平和な気持ちになるため、そしておかれている全てのことに感謝の念を持つため、貯水池に水を貯めるように、一日5分でも10分でも静かに過ごす時間を取り戻そうと私は、思います。